エリシャ・オーティス
概要
ヴァーモントの農家の生まれ。荷馬車の製造、製材、そしてベッド枠の工場の職長と、職を転々とし、そのたびに失敗した。ベッドの製造工場で二階へ機械を上げる必要があり、綱が切れても落ちない昇降機を考えた。1853年に会社を興したが、注文は年に数台である。1854年、万国博覧会の会場で、自分が乗った台の綱を斧で切らせる実演をした。翌年の注文が急増する。四十九歳で死に、二人の息子が事業を継いだ。会社は現在も世界最大の昇降機会社である。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
オーティスの安全装置AD1854年5月 · 作った本文
エリシャ・グレイヴス・オーティスは1811年8月3日、ヴァーモント州南部の村ハリファックスの農家に、6人きょうだいの末っ子として生まれた。19歳で家を出て、ニューヨーク州のトロイに移り、荷馬車を作る仕事についた。

彼の前半生は、うまくいかないことの連続だった。荷馬車の製造は体を壊して続けられなくなった。故郷に戻って製材所や粉ひきの仕事を手がけたが、どれも長続きしなかった。1842年には妻を亡くし、二人の幼い息子が残された。
1845年、彼はオールバニのベッドの枠を作る工場で、機械の担当の職長になった。ここで、ベッドの脚などを削る機械を改良し、生産を数倍に増やしたとされる。やがて独立して自分の工房を開いたが、水車を回していた小川の水が、町の水道の貯水池のために回されてしまい、工房は立ちゆかなくなった。車輪のブレーキやパン焼きの窯の工夫で特許も取ったが、どれも金にはならなかった。

1852年、彼はニューヨーク市の北のヨンカーズに移り、別のベッド製造会社の新しい工場で、機械の据え付けを任された。工場では重い材料や製品を上の階へ引き上げなければならない。当時の昇降の台は綱で吊るしただけのもので、綱が切れて台が落ちる事故は珍しくなかった。
オーティスは、綱が切れても落ちない台を考えた。台の上部に荷馬車用の板ばねを取り付け、昇降路の両側の柱には、歯の並んだ縦の溝を付ける。綱が張っているあいだは、ばねは引き絞られて歯に触れない。綱が切れて張りがなくなると、ばねが一気に開いて両端の爪が歯に食い込み、台はその場で止まる。仕組みは単純で、材料も手近なありふれた部品だった。
1853年、彼はこの装置を作る仕事で独立した。しかし注文はほとんど来なかった。最初の年に売れたのはわずか数台だったという。人々は、綱に吊るされた箱に乗ることそのものを怖がっていた。
転機は1854年の春に来た。ニューヨークで開かれた博覧会の会場で、彼は高い櫓を組み、荷を積んだ台に自ら乗って吊り上げさせた。見物人の前で、助手に斧で綱を断ち切らせる。台はわずかに落ちただけで止まった。彼は帽子を取り、皆さん、ご安心を、万事無事です、と呼びかけたと伝えられる(オーティスの安全装置)。ロンドンの水晶宮の博覧会(ロンドン万国博覧会)にならって建てられたガラスの会場で、この見世物は評判を呼び、翌年から注文が増え始めた。

1857年3月23日、ニューヨークのブロードウェイにある5階建ての陶磁器店に、人を乗せるための昇降機が初めて取り付けられた。蒸気機関で動き、速さは毎分12メートルほどだった。これに乗ることを目当てに客が店へ来るほどの評判になった。
だがオーティス自身は、その先を見ることがなかった。1861年4月8日、ジフテリアにかかって、49歳で死んだ。会社には借金が残っていた。
事業を継いだのは、二人の息子チャールズとノートンだった。兄は技術者として装置に次々と改良を加え、弟は経営を受け持った。二人は会社を立て直し、蒸気から水圧へ、さらに電気へと動力が移るのに合わせて事業を広げていった。
オーティスがしたのは、昇降機を「落ちない」ものにしたことだけだった。しかし、それが都市の形を変えた。それまで建物の高さは、人が階段を上る苦労で決まっていた。5階、6階を超える建物は使いにくく、上の階ほど家賃は安かった。安全な昇降機が当たり前になると、この関係は逆転した。眺めがよく、通りの騒音から遠い上の階こそが高く貸せるようになった。鉄骨の骨組みと組み合わさって、1880年代には最初の摩天楼が現れ(最初の摩天楼)、20世紀にはエンパイア・ステート・ビルのような超高層の建物が空を埋めていく。
彼が設立した会社は、名を変えながらいまも続き、世界最大級の昇降機の会社になっている。エッフェル塔の脚の中を斜めに上る昇降機も、エンパイア・ステート・ビルの昇降機も、この会社が手がけた。毎日、世界中で数えきれない人々が、綱が切れても落ちないという約束を疑うこともなく、箱に乗って上り下りしている。