イーライ・ホイットニー
概要
マサチューセッツの農家の子。釘と杖の製造で学費を貯め、二十七歳でイェールを出た。家庭教師の職を求めてジョージアへ渡り、その地の綿の問題を聞いて綿繰り機を作った。特許は取ったが、構造が単純すぎて誰でも真似でき、訴訟に明け暮れて儲からなかった。次に政府から小銃一万挺を請け負い、部品の互換性を売り物にした。約束の期日は大幅に遅れ、互換性の実現度についても後世の検証で疑問が出ている。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
綿繰り機AD1793年 · 作った本文
イーライ・ホイットニーは1765年12月8日、マサチューセッツ州ウェストボロの農家に生まれた。手先が器用な少年で、独立戦争でイギリスからの品物が入らなくなると、父の作業場で釘を作って売った。のちには婦人帽を留めるピンや杖も作った。その稼ぎで学費を貯め、1789年、同級生よりずっと年上の23歳でイェール大学に入った。卒業は1792年である。

卒業後、彼はサウスカロライナで家庭教師の職を得ていた。ところが南へ向かう船の上で知り合ったのが、独立戦争の英雄ナサニエル・グリーン将軍の未亡人キャサリンだった。現地に着くと、約束の給料が半分だと言われ、彼は職を断った。そしてキャサリンに招かれ、ジョージア州サヴァナ近くの彼女の農園に身を寄せた。
そこで彼は、近くの農園主たちの悩みを聞いた。海沿いの島で育つ繊維の長い綿は種を取りやすいが、内陸で育つ短い繊維の綿は種が繊維にしがみつき、手でむしると一人で一日1ポンドがやっとだった。種を外す機械さえあれば、この土地は変わる。ホイットニーは短い期間で試作機を作ったと伝えられる。針金の歯を植えた円筒が回って繊維だけを格子のすき間から引き込み、種は格子に引っかかって落ちる。外れた繊維は回るブラシで払い落とす。手で回す小さな機械でも、一日に何十ポンドもの綿を処理できた(綿繰り機)。

1794年3月、彼は特許を得た。彼と共同経営者は機械を売らずに、各地に機械を置いて綿を加工し、その手数料として綿の一部を取る商売を考えた。農園主たちは反発した。機械の仕組みは単純で、一度見れば誰でも作れた。各地で模造品が出回り、少し形を変えて別の特許を取る者まで現れた。彼は60件を超える訴訟を起こしたが、南部の陪審は地元の農園主に有利な評決を出した。ようやく法廷で権利が認められたのは1807年で、特許の期限はもう目前だった。議会は期限の延長を認めなかった。サウスカロライナなどの州が権利をまとめて買い取った金がいくらか入ったが、訴訟の費用で消えた。綿繰り機は、彼をほとんど豊かにしなかった。
一方で、この機械はアメリカ南部をすっかり変えた。綿の生産は爆発的に伸び、19世紀の半ばには南部の綿が世界の綿の大半を占め、イギリスの紡績工場を支えた。綿を育て摘むための人手として、奴隷制は衰えるどころか西へ広がった。1790年に70万人ほどだった合衆国の奴隷は、1860年には400万人に近づいた。手間を省くための機械が、奴隷の労働をかえって増やしたのである。この構造の行き着いた先に、南北戦争があった。

綿で行き詰まったホイットニーは、次の大仕事を取った。1798年6月、彼は連邦政府とマスケット銃1万挺を28か月で納める契約を結んだ。金額は13万4000ドル。彼は銃を作ったことがなく、工場もなかった。破産寸前だった彼にとって、契約の前払い金がまず必要だったのだ、という見方もある。
彼が売り物にしたのは「部品の互換性」だった(部品を入れ替える)。それまで銃は、職人が一挺ずつ部品を削り合わせて作っていた。だから部品はほかの銃には合わず、戦場で壊れれば直せない。どの銃のどの部品も、ほかのどの銃にも合うようにすれば、修理も量産も楽になる。1801年、彼はワシントンで、退任間近のジョン・アダムズ大統領と次の大統領トマス・ジェファソンの前で、いくつかの銃の部品を取り替えて組み立てて見せた。議会は感心し、追加の金を出した。

しかし後の研究者が、彼の工場で作られた銃を調べると、部品には手で削って合わせた跡が多く、組み合わせを示す番号が刻まれたものもあった。つまり、この部品はこの銃のもの、だったのである。実演に使われたのは、前もって選び、合わせておいた部品だったと考えられている。28か月の約束は大幅に遅れ、すべて納め終えたのは1809年だった。そのあいだ政府は何度も追加の支払いをした。
ホイットニーは長く「互換性部品の父」と呼ばれてきたが、いまではこの評価は修正されている。部品をそろえて作る考え方は、すでに18世紀後半のフランスで銃工オノレ・ブランが試みていて、パリにいたジェファソンがそれを見て本国に知らせていた。アメリカで実際にそれを工程として成し遂げたのは、政府のスプリングフィールドやハーパーズ・フェリーの造兵廠であり、とくに1820年代に治具と測定具を体系的に使ったジョン・ホールだった。ホイットニーが果たしたのは、その考えを広く宣伝し、国の金を引き出したことである。それもまた、歴史を動かした役割ではあった。

彼がコネチカット州ニューヘイヴン近くに建てた工場の周りには、働き手のための住まいが並び、「ホイットニーヴィル」と呼ばれる町になった。アメリカで最も早い工場町の一つである。1817年、51歳の彼は、神学者ジョナサン・エドワーズの孫娘ヘンリエッタ・エドワーズと結婚した。1825年1月8日、ホイットニーはニューヘイヴンで死んだ。59歳だった。工場は甥や息子が継いだ。