概要
マサチューセッツの農家の子。釘と杖の製造で学費を貯め、二十七歳でイェールを出た。家庭教師の職を求めてジョージアへ渡り、その地の綿の問題を聞いて綿繰り機を作った。特許は取ったが、構造が単純すぎて誰でも真似でき、訴訟に明け暮れて儲からなかった。次に政府から小銃一万挺を請け負い、部品の互換性を売り物にした。約束の期日は大幅に遅れ、互換性の実現度についても後世の検証で疑問が出ている。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
綿繰り機AD1793年 · 作った本文
**イーライ・ホイットニー**(1765〜1825年)。
**マサチューセッツ州、ウェストボロ**。**農家**。
(——**手先が、器用だった**。
〈**——**十代で、**父の作業場で、**釘を作って、売った**。
**〈——独立戦争中、**イギリスからの輸入が止まっていた**。〉**
**そして、**婦人用の帽子留めの針**と、**杖**。
**——**その稼ぎで、**学費を貯めた**。〉
**——**イェール大学**(1789年入学、1792年卒業)。**二十七歳**。
〈**——**同級生より、**かなり、年上である**。〉)
**ジョージア**。
(——**卒業後、**サウスカロライナの、家庭教師の職**が、決まっていた**。
**——**そして、**現地に着いたら、**約束の給料が、半分だと言われた**。
〈**——**彼は、断った**。〉
**そして、**船で一緒だった、**キャサリン・グリーン**(ナサニエル・グリーン将軍の未亡人)**の農園に、**滞在することになった**。
〈**マルベリー・グローヴ**(サヴァナ近郊)。〉
**そこで、**近隣の農園主たちの話を、聞いた**。
〈**——**「内陸の綿は、種が外れない」**。
**——**「装置があれば、**この土地が、変わる」**。〉
**——**十日ほどで、**試作した**、と伝えられる**。〉)
**特許**。
(**1794年3月14日**。
**そして、**商売の方法**。
〈**——**機械を、売らない**。
**——**加工の手数料を、取る**。
**〈綿の、三分の一を、取る。〉**
**——**農園主が、**反発した**。
**そして、**自分で、作った**。
**——**「見れば、作れる」**。
**そして、**少し変えて、**別の特許を、取った者もいた**。〉
**訴訟**。
〈**——**六十件以上**。
**そして、**南部の陪審は、**地元に、有利な評決を出した**。
**——**「この機械は、**社会の公共の財産である」**という論理が、使われた**。
**1807年、**ようやく、彼の特許が、法廷で、認められた**。
**——**そして、**特許の期限が、1807年に切れた**。
**〈——議会が、延長を、認めなかった。〉**〉
**——**綿繰り機から、**彼が得た利益は、ほとんど無い**。
〈**——**サウスカロライナ州などが、**一括で、権利を買い上げた**分が、いくらか**。
**そして、**訴訟の費用で、**相殺された**。〉)
**マスケット銃**。
(**1798年6月、**政府と、契約**。
**——**マスケット銃、10,000挺**。**28か月**で**。
**金額——**134,000ドル**。
〈**——**彼は、**銃を作ったことが、無い**。
**工場も、無い**。
**そして、**契約の前金を、**受け取った**。
**〈——それが、目的だった、という見方がある。**
**——彼は、**破産寸前だった**。〉**〉
**そして、**売り物**。
〈**——**「部品の、互換性」**。
**——**「どの銃の、どの部品も、**他のどの銃にも、合う」**。
**〈——それまで、**銃は、一挺ずつ、職人が、合わせて作った**。**
**——だから、**部品が、他の銃に、合わない**。**
**——戦場で、壊れたら、**修理できない**。〉**〉
**1801年、**実演**。
〈**——**ワシントンで、**ジョン・アダムズ大統領と、次期大統領ジェファソン**の前で**。
**——**複数の銃の部品を、**混ぜて、組み立ててみせた**。
**——**議会が、**感銘を受けた**。
**〈そして、**追加の資金を、認めた**。〉**
**——**後の研究**。
**〈——**現存する、彼の工場の銃を、調べた**。**
**そして、**部品に、手作業で削って合わせた跡**が、多数ある**。**
**さらに、**部品に、組み合わせの番号が刻まれている**ものがある。**
**——つまり、**「この部品は、この銃のもの」**である。**
**——実演で使われたのは、**あらかじめ選んで、合わせておいた部品**だった、と考えられている。〉**〉
**納品**。
〈**——**28か月の契約が、**十年**かかった**。
**——**1809年、完了**。
**そして、**その間、**政府が、繰り返し、追加の支払いをした**。〉)
**評価**。
(——**「互換性部品の父」**とされてきた**。
**——**そして、**近年の研究は、**それを、修正している**。
〈**——**実際に、**互換性を、工程として実現したのは**——
**(1)**フランスの**オノレ・ブラン**(18世紀後半)。
**〈——ジェファソンが、パリで、それを見て、報告している。**
**——そして、フランスでは、**職人の反対で、続かなかった**。〉**
**(2)**アメリカの**スプリングフィールド造兵廠**と、**ハーパーズ・フェリー造兵廠**。
**(3)そして、**ジョン・H・ホール**(1820年代)。
**——**彼が、**治具と、ゲージ**を体系的に使い、**実際に、互換性を、達成した**。〉
**——**ホイットニーがやったのは、**その考え方を、宣伝し、資金を引き出したこと**である**。
〈**——**それも、**歴史的な役割ではある**。〉)
**そして**。
(——**1817年、**五十一歳で、結婚**。
**〈相手は、**ヘンリエッタ・エドワーズ**。**
**——ジョナサン・エドワーズ(神学者)の孫娘である。〉**
**1825年、**死去**。**五十九歳**。
**——**そして、彼の工場(コネチカット州ハムデン)は、**息子が継いだ**。
**〈——「ホイットニーヴィル」。**
**そして、そこは、**アメリカで最も古い、工業のための企業town の一つ**とされる。〉**
**——**彼の墓は、**ニューヘイヴンの、グローヴ・ストリート墓地**にある**。)