人物

サイラス・フィールド

Cyrus West Field
AD1819年11月30日 – AD1892年7月12日(享年72)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

牧師の子。製紙の卸で財を成し、三十代で引退できるだけの資産を得た。海底電信の話を持ち込まれ、電気の知識は無いまま、資金と人を集める役に回った。1857年から1866年まで、四度の失敗と一度の短命な成功を経て、大西洋を結んだ。三十回以上大西洋を往復し、私財の大半を注ぎ込んでいる。晩年は投機の失敗と一族の不祥事で財産を失い、貧しく死んだ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

大西洋横断電信ケーブルAD1866年 · 事業を率いた

本文

サイラス・ウェスト・フィールドは1819年11月30日、マサチューセッツ州西部のストックブリッジに生まれた。父は会衆派の牧師で、子は9人いた。兄のデイヴィッドはのちにニューヨーク州の法典を起草する法律家になり、兄のスティーヴンは合衆国最高裁判所の判事になった。そういう家である。

サイラス・フィールドの肖像
サイラス・フィールドの肖像Wikimedia Commons Napoleon Sarony · Public domain

サイラスは大学へは進まず、15歳でニューヨークへ出て、大きな乾物店の店員になった。やがて紙の卸売りの商売に移り、才覚を発揮した。1853年、33歳のとき、彼はもう引退できるだけの財産を築いていた。その年、彼は風景画家フレデリック・チャーチとともに、南米のアンデスへ半年の旅に出ている。

1854年、技師のフレデリック・ギズボーンが彼を訪ねてきた。ニューファンドランド島に電信線を引く事業の資金を求めていた。大西洋を渡ってきた船がニューファンドランドに着いたところで知らせを電信でニューヨークへ送れば、数日早く届く、という計画である。フィールドは書斎の地球儀を眺めながら、なぜそこで止めるのか、海の底に線を敷けばヨーロッパまでつながる、と考えたと伝えられる。10年前にモールスの電信が実用化され、陸の上では電信網が急速に広がっていた。

サイラス・フィールド(1860年頃)
サイラス・フィールド(1860年頃)Wikimedia Commons Mathew Benjamin Brady · Public domain

フィールドは電気について何も知らなかったし、それを隠しもしなかった。彼の仕事は、金を集め、人を集め、イギリスとアメリカの政府を説得することだった。学問の面はスコットランドの物理学者ウィリアム・トムソン(のちのケルヴィン卿)が支え、ケーブルの製造と敷設はイギリスの会社が担った。フィールドはそれらを一つの事業に束ねた。

最初の試みは1857年8月だった。アメリカ海軍のナイアガラ号とイギリス海軍のアガメムノン号がケーブルを分けて積み、アイルランドから敷き始めたが、600キロほど進んだところで切れた。翌1858年6月は、大洋の真ん中でケーブルをつないでから両側へ向かって敷く方式に改めた。だが嵐に遭い、何度も切れて引き返した。

1858年、最初の大西洋横断ケーブル完成を祝うブキャナン大統領への祝電
1858年、最初の大西洋横断ケーブル完成を祝うブキャナン大統領への祝電Wikimedia Commons Queen Vcitoria · CC0

同じ年の7月に再び出た船団は、8月5日、ついに両岸をつないだ。8月16日、ヴィクトリア女王からブキャナン大統領へ、98語のあいさつが送られた。送り終えるのに16時間あまりかかった。信号があまりに弱く、トムソンの考えた鏡検流計でようやく読み取れた。細い糸でつるした小さな鏡が微弱な電流でわずかに傾き、そこに当てた光の点の動きを読むのである。アメリカは沸き立った。ニューヨークでは祝いの花火で市庁舎の屋根が燃えかけた。フィールドは国民の英雄になった。

そしてケーブルは、3週間ほどで黙った。主任電気技師のホワイトハウスが、信号を強めようと2000ボルトとも言われる高い電圧をかけ、絶縁のガタパーチャ(樹脂の一種)を傷めたとされる。トムソンは、低い電圧で感度の高い受信機を使うべきだと主張していた。そのとおりだった。ホワイトハウスは解任され、世間ではそもそも本当につながっていたのか、詐欺ではなかったのかという声まで上がった。

南北戦争で計画は止まった。戦争が終わった1865年、今度は当時ずば抜けて世界最大の船、グレート・イースタン号が使われた。全長211メートル。客船としては商売にならず大失敗に終わっていたが、大西洋を渡るケーブルを一隻で丸ごと積める船はほかに無かった。しかし2000キロ近く敷いたところでケーブルは切れ、海底から引き上げようとした試みも失敗した。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

1866年7月13日、グレート・イースタン号は再びアイルランドを出た。7月27日、ニューファンドランドのハーツ・コンテントに着き、ケーブルはつながった(大西洋横断電信ケーブル)。船はそのまま引き返し、前の年に落としたケーブルを、深さ4000メートル近い海底から鉤で探り当てて引き上げ、つなぎ直した。大西洋を渡る線は2本になった。

12年のあいだに、フィールドは30回以上大西洋を往復し、私財の大半をこの事業につぎ込んだ。1867年、合衆国議会は彼に金メダルを贈った。ロンドンとニューヨークの間で、知らせは船便の10日あまりから数分になった。株や綿花の値段、戦争と外交の報せが、その日のうちに海を渡るようになったのである。

サイラス・フィールドが住み働いた場所に建つ後世の建物の記念プレート
サイラス・フィールドが住み働いた場所に建つ後世の建物の記念プレートWikimedia Commons Jim.henderson · CC BY 4.0

その後の人生は明るくなかった。彼はニューヨークの高架鉄道や新聞に投資したが、1887年の投機の失敗で財産のほとんどを失った。晩年には、息子が銀行の金を不正に使ったことが明るみに出て、心を病んで施設に入った。1892年7月12日、フィールドはニューヨーク近郊の家で死に、故郷のストックブリッジに葬られた。72歳だった。

いま、大陸と大陸を結ぶ通信の大半は、衛星ではなく海底ケーブルを通っている。その数は数百本、長さは合わせて100万キロを超える。動画もメールも、その多くが海の底を渡ってくる。電気のことを何も知らなかった紙の卸商が、その最初の1本を通したのである。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1819年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →