日干し煉瓦
概要
泥に藁や糞を混ぜ、型で成形し、日に干す。焼かないので燃料が要らない。乾いた土地では、何千年も保つ。初期のものは手で丸めた紡錘形で、指の跡が残っている。型を使うようになるのは後である。同じ大きさの塊を大量に作れることが、直線の壁と、階を積むことと、そして工事の見積もりを可能にした。メソポタミアの神殿も、エジプトの住居も、インダスの街も、大部分はこれである。石の建築ばかりが残ったのは、泥の建物が溶けて消えたからにすぎない。
場所
31.87°N 35.44°E · パレスチナ
本文
日干し煉瓦の作り方は単純である。泥に藁や動物の糞を混ぜてこね、四角く形を整えて、日に干す。数日から数週間で固くなる。藁や糞を混ぜるのには理由がある。泥は乾くときに縮んでひびが入るが、繊維が混じっていると割れにくくなる。繊維が中でつなぎの役をして、引っぱる力にも少し強くなる。乾く速さもならされる。そして、焼かない。それがこの建材の核心である。
焼いた煉瓦は丈夫で水にも強いが、作るには大量の燃料が要る。900度を超える熱で何時間も焼き続けなければならず、木か、炭か、乾かした糞を燃やすしかない。ところが、文明が早く生まれたメソポタミアの平野には、木がほとんど無かった。焼いた煉瓦はひどく高価で、水に濡れる場所、たとえば建物の土台や外側の表面、水路の壁などにだけ使われた。ウルなどの巨大な聖塔ジッグラトも、外側の一皮だけが焼いた煉瓦で、中身はほとんど日干し煉瓦である。日干しなら、燃料は太陽がただで与えてくれる。

日干し煉瓦の最も古い例の一つは、ヨルダン川の西岸の町イェリコで見つかっている。紀元前8千年紀ごろ、まだ土器も作られていなかった新石器時代の人々が、泥を手で丸めて、細長いパンのような形の塊を作った。その表面には、作った人が親指で押さえた跡が、平行に並んで残っている。1万年前の人の指の跡である。イェリコは、石の壁と塔を備えた最古の町の一つとしても知られる(イェリコの壁)。
アナトリアのチャタル・ヒュユクでは、紀元前7千年紀に、日干し煉瓦の家がすき間なく建ち並んだ町が生まれた。この町には道が無い。家々は互いに壁を接して並び、人は屋根に開いた穴から梯子で出入りした。屋根の上が通路であり、広場でもあった。南アジアのメヘルガルや中国の黄河流域の初期の村々でも、泥を固めて家を建てる技術が育っていった。
やがて、木の型に泥を詰めて形を作るようになる。型を使えば、同じ大きさの煉瓦をいくらでも作れる。これが建築を変えた。まっすぐな壁を立てられる。壁の厚さや高さを、煉瓦をいくつ積むかで決められる。そして、工事の見積もりができるようになった。この壁を作るには煉瓦がいくつ要り、何人の働き手が何日かかり、その人々に大麦をどれだけ払えばよいか。メソポタミアの粘土板には、そうした計算が残っている。建築が、役所が数で管理する仕事になった。
王たちは、煉瓦に自分の名を押した。ウル第三王朝を開いたウル・ナンムの名を刻んだ煉瓦は、数多く見つかっている。王の名を彫った型を、乾く前の煉瓦に押しつけるのである。こうした刻印は、建物がいつ誰によって建てられたかを知る大切な手がかりになっている。煉瓦の大きさや形も時代によって移り変わった。ウルク期の細長い角柱のような煉瓦、初期王朝時代の片面がふくらんだ煉瓦、ウル第三王朝の平たく四角い煉瓦。考古学者は、煉瓦の形を見て、その壁がいつの時代のものかを推し量る。

日干し煉瓦の建物は、乾いた土地では驚くほど長く保つ。ただし、条件がある。土台を石や焼いた煉瓦で作って、地面から上がってくる湿気を断つこと。屋根や庇で壁を雨から守ること。そして表面に泥や漆喰を塗り、傷めば塗り直すこと。手入れを怠れば、壁は雨に流され、土に戻っていく。
中東の平原に点在するテルと呼ばれる丘は、そうしてできた。町の建物が崩れて土になり、その上に人々がまた新しい町を建てる。それが何十層も積み重なって、平原の中の小高い丘になる。テルを掘ると、町の歴史が地層のように重なって現れる。
私たちが古代の文明を石の建物で思い浮かべるのは、石が残ったからにすぎない。ピラミッドも、パルテノン神殿も、コロッセウムも石でできている。だが、その周りに建ち並んでいた圧倒的に多くの家は、泥でできていて、溶けて消えた。古代エジプトでは、神殿と墓は石で建てられたが、王の宮殿も人々の住まいも日干し煉瓦だった。神々と死者の家は永遠に、生きている者の家はしばらくのあいだ、というわけである。シュメールの神殿も、バビロンの町も、インダスの都市(インダス文明)も、その大部分は焼いた煉瓦か泥でできていた。
日干し煉瓦は、過去の建材ではない。いまも世界の人口のかなりの部分、一説には3分の1ほどが、土を使った建物に住んでいるという。アフリカ、中東、中央アジア、南アジア、南アメリカ、そしてアメリカの南西部でアドベと呼ばれる家々である。マリのジェンネの泥のモスクのように、毎年町の人々が総出で泥を塗り直して保つ建物もある。
この古い建材は、いま見直されてもいる。作るのにエネルギーをほとんど使わない。セメントの生産は世界の二酸化炭素の排出の7〜8パーセントを占めるとされ、焼いた煉瓦も大量の燃料を使う。厚い土の壁は熱をためこむ力が大きく、昼の暑さを吸い込んで夜に吐き出すので、昼夜の寒暖の差が大きい乾燥地の気候に合っている。材料はその場の土で、遠くから運ぶ必要もない。
弱点は地震である。日干し煉瓦を積んだ建物は揺れにきわめて弱く、崩れると重い土の塊が住む人の上に落ちてくる。2003年12月、イラン南東部の古い町バムを大地震が襲い、2万6000人を超える人が亡くなった。犠牲の多くは、日干し煉瓦の家の倒壊によるものだった。町のシンボルだった泥の城塞も大きく崩れた。いまは、繊維の網で壁を補強したり、屋根を軽くしたりして、揺れに耐える土の家を作る研究が進められている。1万年前の指の跡から始まった建材は、これからも人の住まいであり続けるだろう。