概要
北極圏の島の、永久凍土の山腹に、130メートルの坑道を掘って作られた。各国の種子銀行が、その複製を預ける。所有権は預けた側にあり、貯蔵庫は開けない。金庫の貸金庫と同じ仕組みである。零下18度に保つが、電気が止まっても凍土が数十年、温度を保つ。収蔵は120万点を超えた。2015年、シリアの内戦で研究所を失ったICARDAが、初めて引き出しを求めた。中東の乾燥地の小麦と大麦の種が、モロッコとレバノンへ送られ、殖やされ、そして返された。
場所
78.23°N 15.49°E · ノルウェー
本文
**なぜ、必要か**。
世界に、**種子銀行(ジーンバンク)**が、約1,700ある。
**そして、それらが、失われてきた**。
(——**戦争**。**内戦**。**火災**。**停電**。**資金の枯渇**。**そして、管理の失敗**。
**失われた例**。
- **アフガニスタン**(2002年)——カブールとガズニの種子銀行が、略奪された。
〈**種そのものが目的ではなかった**。**種が入っていたガラス瓶と、金属の容器が、欲しかった**。
種は、床に撒かれた。〉
- **イラク**(2003年)——アブ・グレイブ近郊の遺伝資源センターが、略奪と破壊で失われた。
〈幸い、その一部の複製が、シリアのICARDAに預けられていた。〉
- **フィリピン**(2006年、2012年)——国際稲研究所の関連施設が、台風、そして火災で被害を受けた。 - そして、**多数の、記録されていない喪失**。)
**構想**。
**1980年代**から、北極圏に安全な保管庫を作る構想があった。
(実際、**1984〜2001年**、スヴァールバルの**廃坑**に、北欧諸国の種子が保管されていた。)
**2004年**、**食料及び農業のための植物遺伝資源に関する国際条約**(ITPGRFA、「**種子条約**」)が発効した。
**2006年6月**、建設開始。
**2008年2月26日**、開所。
**場所**。
**スヴァールバル諸島、スピッツベルゲン島、ロングイェールビーン**。
**北緯78度**。
(**人が定住する場所として、世界最北の部類**である。
——空港がある。だから、**種を運び込める**。
そして、**ノルウェー領**である。〈**スヴァールバル条約**〈1920年〉により、非武装で、締約国の国民が経済活動を行える、特殊な地位にある。〉
そして、**政治的に安定している**。)
**構造**。
- **山腹に、130メートルの坑道**を掘る。 - その奥に、**3つの保管室**。 - **入口は、海抜130メートル**。
(——**すべての氷が融けても、水没しない高さ**として設計された。)
- **永久凍土**の中にある。
(**周囲の岩盤の温度が、氷点下3〜4度**。
——**電気が止まっても、数十年、凍結が保たれる**。
〈これが、この場所を選んだ、最大の理由である。〉)
- **冷凍機で、零下18度**に保つ。
(——**種子の保存の、国際的な標準の温度**である。
この条件で、多くの作物の種子が、**数十年から数百年**、発芽力を保つ。
〈大麦で約2,000年、モロコシで約2万年、という推計もある。ただし、実測ではなく外挿である。〉)
**仕組み**。
**極めて重要な点**。
**貯蔵庫は、種子を「所有」しない**。
(**貸金庫**と同じである。
- **各国の種子銀行が、自分の収蔵品の複製を、箱に入れて送る**。 - **箱は、封をされたまま、棚に置かれる**。 - **所有権は、預けた側にある**。 - **貯蔵庫の運営者は、箱を開けない**。中身を検査しない。 - **預けた側だけが、引き出しを求められる**。)
(——**この仕組みが、各国の参加を可能にした**。
**遺伝資源の主権**は、極めて敏感な問題である。
〈**バイオパイラシー**——先進国の企業が、途上国の遺伝資源を無断で持ち出して特許を取る——への警戒が、強い。
**もし、貯蔵庫が種を「集める」機関だったら、多くの国が参加しなかった**。〉)
**運営**。
- **ノルウェー政府**が、建物を所有し、費用を負担する。 - **北欧遺伝資源センター**(NordGen)が、運営する。 - **クロップ・トラスト**(Global Crop Diversity Trust)が、途上国の種子の輸送と準備を支援する。
**収蔵**。
**開所時——約27万点**。
**現在——120万点以上**。
(**世界の種子銀行の収蔵品の、複製である**。
**約6,000種**の作物と、その野生の近縁種。)
(**最大の預託者**——国際稲研究所(IRRI)、国際トウモロコシ・小麦改良センター(CIMMYT)、そしてICARDA。
そして、**100を超える国と機関**。
——**北朝鮮も、預けている**。)
**引き出し**。
**2015年**。
**初めての、引き出しの要請があった**。
**ICARDA**——**国際乾燥地農業研究センター**。
(本部が、**シリアのアレッポ**にあった。
**中東の乾燥地の、小麦、大麦、レンズ豆、そらまめ、ひよこ豆**の、世界最大の収集を持っていた。
——**約15万点**。)
**2012年**、内戦が、アレッポに及んだ。
(職員が退避した。
——**それでも、一部の職員が残り、発電機を回して、冷凍を維持した**。
**種は、守られた**。
**しかし、施設は使えず、種を殖やして配布する機能が、止まった**。
〈種子銀行は、**種を配ること**が仕事である。研究者と育種家に、素材を送る。
**それができなければ、意味がない**。〉)
**2015年9月**、ICARDAが、スヴァールバルに預けていた複製の、**返還を求めた**。
**約3万8,000点**が、送り返された。
(**モロッコの、ラバト**と、**レバノンの、テルアメラ**の、新しい施設へ。)
そこで、**殖やされた**。
**2017年**、そして2019年、2020年。
**ICARDAが、殖やした種を、スヴァールバルに、返した**。
(——**貯蔵庫は、意図された通りに、機能した**。
〈そして、**この事例が、貯蔵庫の存在意義を、最も明瞭に示した**。〉)
**問題**。
**(1)2016年、浸水**。
(**異常な暖冬**で、永久凍土の表層が融け、**入口のトンネルに、水が流れ込んだ**。
**種には、届かなかった**(保管室は、さらに奥の、高い場所にある)。
——それでも、**警告として、受け止められた**。
**2019年**、**2,000万ドル**をかけて、入口部分が改修された。防水、排水、そして冷却の機器の移設。)
**(2)種子にできない植物**。
(**じゃがいも、さつまいも、キャッサバ、バナナ、りんご、そして多くの果樹**。
——**種で保存できない**、あるいは**種では品種が保てない**。
**畑に、生きたまま育て続けるしかない**(**圃場保存**)。あるいは、**組織培養**と、**超低温保存**(液体窒素)。
〈**これらは、スヴァールバルには、預けられない**。
そして、**圃場は、災害と、資金と、政治に、はるかに脆弱である**。〉)
**(3)そして——貯蔵庫だけでは、足りない**。
(**種は、生きている**。
**冷凍しても、少しずつ、発芽力が落ちる**。
**定期的に、蒔いて、殖やして、更新しなければならない**。
——**それは、各国の種子銀行の仕事である**。
**スヴァールバルは、その複製を預かるだけである**。
〈**元の銀行が機能しなくなれば、複製も、いずれ死ぬ**。〉)
**(4)畑の中の多様性**。
(**種子銀行に保存されている多様性**と、**農民が畑で作り続けている多様性**は、別のものである。
——**後者は、いまも進化し続けている**。病害虫と、気候に、応答して。
**銀行の中の種は、止まっている**。
〈だから、**現地保全**(in situ conservation)——農民が、在来品種を作り続けることを支援する——が、同じくらい重要だとされる。〉)
**そして**。
**なぜ、これが必要か**。
**20世紀に、作物の多様性が、大量に失われた**。
(**緑の革命**——高収量の品種が、世界中に広がった。
**それは、飢餓を大幅に減らした**。
**同時に、在来品種が、置き換えられた**。
〈FAOの推計として、**20世紀に、作物の遺伝的多様性の約75%が失われた**、という数字がしばしば引かれる。
——この数字の根拠は、実は**明確ではない**。〈1990年代のFAOの報告に由来するが、算出の方法が示されていない。〉
それでも、**大幅な喪失があったこと自体は、多くの研究が支持している**。)
**そして、単一の品種に依存することの危険**。
(——**アイルランドのじゃがいも**(単一品種のランパー)。
**1970年、アメリカのとうもろこしの葉枯病**。
〈当時のアメリカのとうもろこしの**約85%**が、同じ細胞質雄性不稔の系統を使っていた。
**その系統が、この病に弱かった**。
**その年の収穫が、15%減った**。南部では、50%以上減った地域がある。
——**耐性の遺伝子は、どこにあったか**。**種子銀行の、古い在来品種の中にあった**。〉)
**山の中に、120万個の箱がある**。
そして、**そのほとんどは、二度と開けられないほうがよい**。