できごと

ロンドン・スモッグ

The Great Smog of London
AD1952年12月5日
重要度 5
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概要

12月5日から4日間、無風で気温が逆転し、家庭と工場の石炭の煙が地表に留まった。視界が数メートルになり、昼でも暗く、劇場は舞台が見えないので公演を中止した。牛が窒息死し、人が川に落ちた。当時の集計で死者4000人とされたが、後の推計では1万2000人に上る。それまでロンドンの霧は名物であり、風物として描かれてきた。1956年、大気浄化法。無煙燃料への転換と、煙を出す暖房の規制。都市の空気が、政策の対象になった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

ロンドンの霧は、長いあいだこの都市の名物とされてきた。だがその多くは、ただの霧ではなかった。煙と霧が混じったもの、つまりスモッグである。煙(スモーク)と霧(フォッグ)を合わせたこの言葉は、1905年にロンドンの医師ヘンリー・アントワーヌ・デ・ヴーが使い始めたとされる。

煙のもとは石炭だった。ロンドンのほとんどの家が暖炉で石炭を焚き、市内にはバタシーやバンクサイドの発電所が煙を上げていた。バンクサイドの発電所の建物は、いまテート・モダン美術館になっている。工場の煙突も、蒸気機関車も石炭を燃やした。しかも第二次世界大戦後のイギリスは外貨が足りず、質の良い石炭を輸出に回して、硫黄の多い質の悪い石炭を国内で使っていた。

1938年のバタシー発電所(当時は煙突2本)
1938年のバタシー発電所(当時は煙突2本)Wikimedia Commons Andy Dingley (scanner) · Public domain

石炭の煙への苦情は古い。1306年にはエドワード1世が、ロンドンで石炭を焚くことを禁じる布告を出したが、効き目はなかった。1661年には文筆家ジョン・イーヴリンが『フミフギウム』という小冊子を書き、ロンドンの煙の害を訴えた。彼は煙を出す産業を郊外へ移し、町に香りのよい木を植えることを提案して国王チャールズ2世に献じたが、取り上げられなかった。

19世紀になると、黄緑色の濃いスモッグは「エンドウ豆のスープ」と呼ばれるようになる。チャールズ・ディケンズの小説には霧が繰り返し現れ、『荒涼館』はロンドンを覆う霧の描写で始まる。1899年から1901年にかけて、かつて第一回印象派展に出品した画家クロード・モネはロンドンに滞在して国会議事堂の連作を描いた。描いたのは霧を透かした光である。霧が無ければロンドンは美しい町ではないだろう、とモネは語ったと伝えられる。霧は多くの人にとって風景であり、健康の問題とは見られていなかった。1873年、1880年、1892年にも濃いスモッグのたびに死者が増えた記録があるが、冬に呼吸器の病で人が死ぬのは季節の常と考えられていた。

1952年のロンドン・スモッグによる死亡率の図
1952年のロンドン・スモッグによる死亡率の図Wikimedia Commons Great Britain Committee on Air Pollution · Public domain

1952年12月5日、いくつもの条件が重なった。まず、ロンドンの上空に高気圧が居座り、風がほとんど止まった。次に、気温の逆転が起きた。ふだんは上空ほど気温が低く、地表で暖められた空気が上昇して煙を運び去る。ところがこの日は上空に暖かい空気の層ができ、それが蓋になって、地表近くの冷たい空気と煙が逃げ場を失った。そして寒かった。人々はいつもより多くの石炭を焚いた。

スモッグは12月9日まで4日間居座った。視界は数メートルになり、自分の足元が見えなかったという証言もある。道に迷った人がテムズ川に落ちた。バスも救急車も動けなくなり、走っていたのは地下鉄くらいだった。スモッグは建物の中にも入り込み、映画館ではスクリーンが見えなくなった。サドラーズ・ウェルズ劇場ではオペラ『椿姫』の上演中に客席から舞台が見えなくなり、公演が打ち切られた。スミスフィールドの家畜の品評会では牛が息を詰まらせて死に、飼い主がウイスキーに浸した袋を牛の口にかぶせて助けようとしたという話も残る。外を歩けば、服も肌も煤で黒くなった。

1952年のロンドン・スモッグによる死亡率の図
1952年のロンドン・スモッグによる死亡率の図Wikimedia Commons Great Britain Committee on Air Pollution · Public domain

人も死んだ。12月の第1週から死亡届の数は平年の3倍ほどに跳ね上がり、葬儀屋の棺が足りなくなり、花屋の花が売り切れた。当時の公式の集計では、死者はおよそ4000人とされた。だが2001年に発表された研究は、その後数か月の死者の増え方を含めて計算し直し、1万人から1万2000人がスモッグの影響で亡くなったと推計している。多くはスモッグの数日後ではなく、数週間から数か月かけて、呼吸器や心臓の病で亡くなった。病気になった人は10万人を超えたとされる。

政府ははじめ、これを重く見なかった。保健大臣イアン・マクラウドは議会で、これはただの霧だと言わんばかりの答弁をしたと伝えられる。死者の増加をその冬のインフルエンザの流行のせいにしようとする説明もあったが、後の分析で、インフルエンザだけではとても説明できない規模だったことが分かっている。

世論が政府を動かした。新聞、議員、そして遺族が声を上げ、政府はビーヴァー委員会を設けて原因と対策を調べさせた。こうして1956年、大気浄化法ができる。自治体は「煙規制地域」を指定でき、そこでは家庭でも煙を出す燃料を焚いてはならない。コークスや無煙炭、ガスや電気への切り替えには公費で補助を出す。工場の煙突を高くし、発電所は町の外へ移していく。この法律の大事な点は、工場だけでなく、一軒一軒の家の暖炉にまで直接手を入れたことにある。そして、そのための費用を公の金で支えた。

効果が出るまでには時間がかかった。1962年にも大きなスモッグが起き、およそ750人が亡くなった。1968年には法が改められ、1970年代を通じてスモッグは少しずつ減っていく。決め手になったのは、1960年代の後半から北海で天然ガスが開発され、家庭の燃料が石炭からガスへ急速に入れ替わったことだった。規制と、それに代わる燃料がそろって、はじめて空気が変わったのである。ロンドンの冬の日照時間は、スモッグに日差しを遮られていた時代に比べて大きく延びた。

日本でも高度経済成長の時代、工場の排水が海を汚し(水俣病)、工場の煙が住民の肺をむしばんだ。三重県の四日市ぜんそくをめぐる裁判で、1972年に企業の責任が認められている。工業化した都市は、どこでも似た道をたどった。

ロンドンの大気汚染は、いまも終わっていない。いまの主な原因は石炭ではなく自動車、とくにディーゼル車が出す窒素酸化物と微小な粒子である。2000年代、ヨーロッパの国々は二酸化炭素の排出が少ないことを理由にディーゼル車を優遇したが、その結果、別の汚れが増えた。2015年には大手自動車会社の排ガス検査の不正が明るみに出て、その前提も揺らいだ。

2013年、ロンドン南東部で、エラ・キシ=デブラという9歳の少女が喘息の発作で亡くなった。家は交通量の多い幹線道路から25メートルほどのところにあった。母親は何年も調べ直しを求め続け、2020年、検死審問は大気汚染を死因の一つと公式に認めた。大気汚染が個人の死因として記録されたのは世界で初めてとされる。

世界保健機関の推計では、大気汚染による死者は世界で毎年700万人ほどにのぼる。屋外の汚れだけでなく、煮炊きや暖房に固い燃料を燃やす屋内の汚れも含めた数で、その大半は低所得や中所得の国に集中している。1952年12月のロンドンで起きたことは、形を変えて、いまも別の場所で起きている。

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